追い求め続けた投資手法 手稿4題

全国投資家行脚

なんとか「日柄観測法」を書き終えると、柴田は投資家としてはやや奇怪な行動をとることになります。
まず、「日柄観測法」の成果を手土産に各地の著名な投資家を訪ねて、投資手法の意見交換と言う形で更なる投資の深遠な秘密をさぐるきっかけを掴もうとしますが、柴田のような特異な目的をもった投資家や相場師が世の中にそうそういるとも思えず、この試みは失敗に終わります。

柴田は極力、裁定による判断を排除した取引手法が見つけられると言う前提で研究をしているわけですが、相場を知っているひとかどの相場師にはこの考えはかなりの違和感のあるものと思え、理解の難しいものであったはずです。

多くの優秀な相場師は相場における心理の動きを自分の心眼で見極めて、自身の心の弱さと闘いながら判断すると言うことの重要性を知り尽くしており、そこを突き詰めることで、成功していると自負しているはずですし、また、そのような艱難辛苦の末に見つけた投資法を簡単に他人に教える必要もないし、さらに言えば自身の手法を他人に理解できるような形にまとめるような作業はしていないからです。

本当に儲かっている人がそんなに簡単にその儲け方を話すのだろうかと言う疑問があるわけです。

ジェイコム男さんは訪れる人に気前よく自分の手法を開示するそうですが、そう言う人の方がレアですし、聞いたところでそれを実践するにはまた別の問題もあるでしょうから、それこそヒントを得るくらいの情報が得られれば上出来と言う結果だろうと思われます。

柴田自身も他人の手法を知りたいのは、自分の手法に自信がないからではないか、あるいは本当に自己顕示欲だけでそうしているのかと言う疑問が残る行動です。

たぶんこれは自身の研究の限界に対するせめてヒントを求めての行動だったのかも知れませんが、柴田のこの奇異な行動は私のような凡人にはなかなか理解が難しいものです。

それにしても、機械式とか科学的とか言っている時点柴田のニーズと合致するような相場師も手法もそうそうないと思われます。

たとえ話になりますが、現在の私のところに柴田のような人物(つまり徹底したシステムトレード専門の研究家)がもし現れたとしたら、一定の意見交換が出来る可能性がありますが、その理由は「チャート分析・テクニカル分析」と言う共通語があると言うことが大前提になると思えます。

柴田の全国行脚のころに江戸時代から続くローソク足のチャート分析と言う共通語は存在していますが、柴田が行ったような組織的な価格分析(現在ならコンピュータで簡単に出来ますが、以前は人海戦術)を行ったような相場師はまずいなかったように思えます。

私が柴田の知識欲から一途に行ったこの大物相場師を訪ね歩いての情報交換の試みを奇怪な行動と感じるのは、そのような理由から現実味も成果も期待できない方法だと思うからです。

懸賞付きの手法公募

全国行脚に行き詰って頃に昭和14年38歳の時に「鈎足観測法」をまとめ上げあた柴田は、投資家・相場師として更に奇怪なことを行います。

柴田は今の日本経済新聞の前身である中外商業新報に大がかりな広告を出します。
内容は「鈎足観測法」より優れた成績を出せる自信のある手法を募集するとともに、「鈎足観測法」を習得実践したい人に対して、手弁当で指導に行くと言うものです。

この募集には100名を超す人々が名乗り出たため、柴田はこののち再び長い全国行脚を行います。

手法の募集はまたしても不発に終わり、手弁当の指導行脚も具体的な成果については何一つ述べられていません。

昭和12年に始まった支那事変はその後拡大し、暗い時代は昭和16年12月の大東亜戦争へと進みますが、40歳近い柴田は家長でもあり、軍に徴兵されることなく相場研究を行いながら昭和20年8月の終戦を迎えます。

戦後の相場は数々の混乱もあったものの、吉田茂の非武装路線による莫大な防衛費負担の回避や朝鮮戦争の特需などの好条件の元、原則株価の上昇と言うトレンドに乗ることになります。
こうした好況基調の相場が柴田に個別銘柄を越えて日本の相場が上昇していると言う実感を明確にするために平均株価と言う考えをもたらしたのではないかと思います。
ダウジョーンズ式の日経平均などの導入される前の昭和22年に、柴田は単純平均ながら「主要100銘柄平均足」と言う考えを発表しています。
またその二年後の昭和24年、48歳の時に単純平均の計算式を改良したうえで、更に日本の経済の実態を明確にするために「主要150銘柄平均足」を発表しています。

この年柴田は平均株価を使ったトレード手法である「四段切途転売買法」を発表、同時に今度は懸賞付きで、三度目の売買手法の募集を行います。
この多額の懸賞金がついた売買手法の公募自体は大きな話題になったようですが、結局、柴田がこの募集からも成果を得ることはありませんでした。

柴田が本当に自分で言うような成績を達成した投資法の研究者なら、そんな人が更に優れた投資法を世に求めたことはとても奇異に感じられるのですが、それは異才ならではの少年の心のような好奇心で行ったことなのか、自分の成果に対する柴田の真摯な謙虚さのなせる業なのか、あるいは本当は自分の研究の限界をわかっていた焦りと考えるべきなのか、謎めいた行動としか思えません。

また、当時の限られた情報の中では本当に使えるものがないことを「念のために確認する」と言う作業にこれだけの労力が要ったのだと考えることができなくもないのでしょうか。

今ならネットでそうした情報はある程度集めることができるので、時代を考えれば、私の柴田のこの行動に対する「奇異な」印象は幾分は割り引く必要があるかもしれません。

少なくとも三度目の手法募集にトライしたころには柴田には研究を手伝う弟子もいたと思われるので、柴田のような人物が相場の孤独を分け合うための仲間を募集していたとも思えませんが、何度も売買手法を求めては失敗と言うことを繰り返し、この後は自分自身の手で人間の裁量を極力排した形の売買手法の確立を目指すことになります。

個人的には長い年月をかけて自分でやるしかないと言う至極当たり前の考えに至ったようにも思えますが、そこには我々凡人にはわからない、柴田ならではの心のプロセスがあったのかもしれません。

実トレードの封印

昭和28年、52歳の時、その年に大いに乱れた相場を実は柴田が裏で操作していたのではないか?と言う疑いをかけられたのをきっかけに、柴田は自身の実取引を完全に封印します。
これによって、新たな環境で取り組むことにした「究極のシステムトレード研究」はますます熱の入ったものになってゆきます。

60歳までの完成を目標に、身内や弟子と研究のために取り組んだその対象時系列データ数を延べにすると5000年分になると言う当時としては徹底したものでした。

これは「相場大辞典」と言う名称で発表する一連の相場取引手法書となるのですが、のちにこの大辞典が「機械式売買手法」と呼ばれるように、ここに書かれたルールを守ればほぼ自動的に期待値が実現できると言う触れ込みのものでした。

柴田が「機械式」と呼ぶシステマティックなトレードへのこだわりは尋常ではなく、柴田は終生この検証・再現の可能なルールによる自動的論理によるトレードにこだわっていました。
懸賞付きで募集した手法もその応募条件を見れば、この検証可能、再現可能と言う部分、つまりきちんとした客観的ルールによる運営と言う部分を明確に求めていました。

こうした募集は今のようなコンピュータも情報もなく、テクニカル分析やシステム・トレードと言う事に対するコンセンサスのない時代には無謀に思える試みでしたが、この点はこの時代に柴田が東京や大阪ではなく、当時、今以上に中央からみて遠隔地であったはずの北海道の札幌近辺に住んでいたことによる世情観から内地の相場文化への過剰な期待感だったのかもしれません。

執念の終焉

昭和31年4月、「相場大辞典」第一巻の「棒足順張りの巻」が完成すると柴田は東京に転居します。
棒足とはいわゆるローソク足のことで、これはローソク足のフォーメーションを徹底的に研究した結果、わかりやすくそこに示されたサインを読み取れるように工夫したもので、翌年には第二巻の「棒足逆張りの巻」が完成します。

東京で相場師として、また相場の指南役としてデビューすると、その相場観測が当時「赤いダイヤ」と言われた小豆の商品市場や株式市場で驚異的な的中率を記録したことで、「北海道の罫線屋」の異名で知られるようになります。

昭和33年、「相場大辞典」の第三巻「鈎足の巻」第四巻(当初の予定で第四巻)「特殊足の巻」が一冊一巻に編成されて「機械式売買法」として刊行されます。

実は柴田が60歳までの刊行を予定していたのは全五巻で、最後の第五巻は「日柄観測の巻」とされていましたが、この第三巻の完成をもって「相場大辞典」の刊行は最後となります。

この第三巻の出版に合わせて柴田は四度目となる売買手法の懸賞付き募集を行います。
今までは、中外経済新報で打っていた募集広告をこの時は当時の全国八大新聞にまで広げる大々的なもので賞金も200万円と言う今の価値にすると宝くじの一等に相当するような破格のものでしたが、やはりここでも柴田には得るものはありませんでした。

この時期に及んでの募集広告をみると柴田の奇異な行動の理由が「この世のどこかに必ず自分の求めている手法が、埋もれているに違いない」と言う思い込みのように思えます。

そして、柴田と言う人物は思いこみの激しいタイプではなかったかと思われ、その変人的な行動の多くがこの過剰な思いこみと言う彼の性格で説明可能ではないかとも思えるのです。

広告費もこの時の賞金に相当するか、あるいはそれ以上をつぎ込んだと思われ、こうした自分の手法より優れたものを世に問う執念は、あるいは自分の手法を世間に正しく理解して貰いたいと言う執念だったのかもしれません。

このころをハイライトに柴田の売買手法研究家としての成果はピークを過ぎたようで、相場の研究は続けつつも、めぼしい手法や「相場大辞典」の未完部分の刊行はありません。
昭和38年62歳の時に著書「私の履歴書」を発表しますが、巻末には「この続きは書けないことを知っている」と記されています。

その後は大きな話題を呼ぶことなく昭和47年71歳で没します。

「相場大辞典」が完成したのかどうかは、彼の著作を読む限り不明です。

理由は予定の巻数に達することなく完成としたことや、晩年どうやらモティベーションの低下があったと思われる点です。

思い描いたロジックの感性と研究の現実の狭間でギブアップしたようにも思えます。

客観的に見れば全国の投資家にヒントを求めると言うのは柴田の焦りであり投資家らしからぬ平常心を見失った行動です。

また、ある意味他人を当てにしたと言う点でも柴田の投資家としての思想の一部に欠陥があったと思われます。

最初の投資の失敗の時に投資家の「本能」を用いた手法に梶を切らなかったことが悔やまれるようにも思えます。



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