スランプから学んだ投資の不確実性 手稿4題

早熟な投資家

時代が許したこともあり、柴田本人が希望したとされる一年早い尋常小学校への進学以来、柴田の人生はすべてに早熟であったようで十代の後半では、いっぱしの経営者として身なりやふるまいもそれらしく整えて、大人たちと対等に渡り合っていたようです。
農家の経営と言ってもこの当時は(現在は法的に禁止されている)小作農の雇用が許されていた時代です。
現在の主流であるサラリーマン兼業農家からは想像もできませんが、この当時、特に開拓農民の成功者は土地を買い広げ、収穫を拡大し、使用人も増やし、またその営業の一環として相場を判断すると言うまさに「経営者」と言うのにふさわしいような立場であったと想像できます。

柴田は独学で農学なども学習したと言うのは先に述べたとおりですが、季節感とともに農業にいそしみ、収穫と言う節目とともに、それを換金すると言うプロセスで生活を営むと言う事情を、幼いころから開拓農家の子としてずっと見ていたと言う生い立ちは、相場師としての柴田の最大の強みなのかもしれません。
柴田はそれこそ自身が当時の農家一般について述べているように、彼自体も相場の動きを感じ取れるような本能を当然もっていたわけです。

そのことは20歳そこそこの若者が、その後五年にもわたって相場で莫大な利益を上げ続けたことからも伺えます。

本人はその連勝を「まぐれあたりとそのまぐれあたりが続くと言う幸運によるものであった」と言った表現で、やや謙遜していますが、相場に参加した経験がある人なら五年間もの間、幸運だけで勝ち続けたと言う主張には嫌味な謙遜ではないかと言う違和感を覚えるところでしょう。
柴田の主張ではそれが「ビギナーズ・ラックであった」と言う雰囲気で語られているようですが、ビギナーズ・ラックで五年間も連勝するというのは、やはり常識的には無理があります。
常識的に見れば、柴田が五年間も勝ち続けられたのは本能的に身に付けた商品相場の相場観と言うものがあったからにほかならず、その基礎の上に奇しくも幸運が何度も重なったと言うのが本当のところ柴田の言いたかったことではないかと思います。
この五年間で自信も自負も内面で確立していたと思われます。

莫大な損失と転機

柴田は、大正12年の関東大震災をきっかけに相場で大損失を被ります。

ひとたび歯車が狂うと、物事はどんどん悪い方に傾くと言うのは、スポーツ選手などの陥るいわゆるスランプと同様の道理です。

24歳で現在の貨幣価値に換算して10億円(晩年、柴田が著書を記した当時の価値では一億円ほどとしています)ほど損をしたと言います。

スランプと言うのはスタイルが崩れた時に訪れます。
そしてそのスタイルを崩すものの正体はだいたいの場合心の迷いなどで起こるものです。

数度の失敗は相場ではよく有ることですが、それがたまたま相場の事情で大きな損失を生み、そのことで迷いや自信喪失が重なってメンタルが崩れると、なかなか抜け出せない心の葛藤と言う長期のスランプに陥ることが多いものです。

柴田がのちに裁量を出来るだけ排除したシステマティックなトレードで利益を上げる方法に執着を見せるのも、この時の損失のトラウマがメンタルにダメージを与えたと言う側面もあったのではないかと察しています。

実はスランプ前の成績から本能的に非常に優秀なトレーダーであったと思われる柴田がその本能的な投資法をたまたま偶然が重なったものと評価していた点がその裁量を排除した投資へのこだわりの原因であり、その天性を考えるともしこの時「本能的な投資法」を極める方に気持ちが動いていたらとつい想像してしまいます。

この時のトラウマの正体は、単に関東大震災と言う思いもよらぬ天災による相場の乱れに翻弄されたためと言うより、その時に覚えた心の迷いや恐怖、葛藤から受けたダメージであったと思えるのです。

大震災後のしばらくの間、柴田はそれまでのスタイルを崩して(損失を過剰に意識した)肩に力の入った投資を繰り返して損失を拡大したその経験から、裁量による判断はその時々の感情の高ぶりや不安感などに左右されてどんどん外れてゆく、根拠の薄い虚ろなものだと感じたようです。

機械式トレード

人の心は定まらぬものであるので、真剣勝負の相場では一切の感覚的な判断を排除し、柴田が科学的と呼ぶ(後には機械式とも称します)システム・トレードの開発こそが唯一の当てになる投資法だと言う執着を見せるようになります。

柴田の狂気じみた執念がその独特の個性の断面であるとしたら、「相場を観測するための客観的な原理・真理」を解き明かそうと考えたこと自体にその独創性が認められるものであると考えます。

現在の常識では柴田の求めたものは柴田の方法では不可能であるのですが、当時の知識では現在認識されている投資の限界はまだ明確には意識されていないこともあって、奇人的な挑戦が形式としては成立しえた時代であったと考えるのです。

この独特の執念が見られなければ、如何に彼が開発したロジックが優秀な成績を示したとしても柴田はただの変人であったろうと思えます。

人間らしさ

柴田の記した文章を読む限り、柴田には終生、自分が社会から正当に評価されていないと言う、複雑な感情に由来する自己顕示欲やその感情が見せる他の相場関係者への攻撃性、更に、そうした自己顕示とは矛盾する「自分を孤独において、わかってくれる人だけわかれば良い」と言う非常に屈折した思いが付きまとっています。

この屈折は他の投資家や経済紙などを一方的な論理で「幼稚である」とか「単なる造糞器」などとこきおろす柴田の幼児性に顕著に表れており、彼の書籍のこのような言葉に触れる人々を戸惑わせるものです。

ちなみに「造糞器」は最近耳にするのが東京落語くらいですが、「貴様なぞはただ白なるものを食し黄なるものを出すにとどまる」と言う言い回しで出てくる言葉で、落語では自分の知識をひけらかす人が好んで他人の無能さを攻撃するフレーズです。

柴田の屈折した感情は、心理学的には、早熟な子供が早くから大人として生きたための副作用として説明できるものかもしれませんし、もう一つには(たとえば小学校での成績の誇張などに)知識コンプレクス・学歴コンプレクスのようなものも見え隠れして、それも柴田の理解の難しい変人性の一面を形成しています。

つまり、柴田の屈折した感覚や幼児性は、変人としても説明できるものであると同時に、ひょっとすると非凡の現れとしても説明できる性格ものかもしれません。

もし柴田に本当に非凡さがいくらかでもあったとしたら、時代が若すぎたためにその目標が破綻していたと言う意味で登場する時代が早すぎたと言えるのかもしれません。

矛盾と葛藤

柴田はその投資に柴田罫線を使っていなかったと言う批判的な伝承があるようですが、この点は数少ない柴田について書かれた伝承などでも間接的には想像できるものです。

柴田は息子や助手たちに対して、毎朝短い指示を与えるだけで、弟子たちがかなりの労力をかけて毎日作成していた鈎足などのチャートに対してはさほど時間をかけて検討した形跡はないようです。

このことが事実ならやはり「三つ子の魂百まで」で幼少期から穀物相場で養った「天性の」相場観の方が機械式の「柴田罫線」よりも依然として柴田のよりどころであって、罫線は実はその相場観を確認する道具にすぎなかったのではないかと言う疑いです。

しかも自らを「罫線家」とか「罫線の大家」と称し、また称されることを好んだように、自分では実は機械式ではなく「天性の相場観で利益を手にしていた」ことに気づいていなかった可能性すらあります。

この重要な自己評価の欠落が柴田の思わぬ「抜けていた」ところであったとしたら、この点も柴田がいわゆる奇人に属するタイプの人であったと言う可能性の一例かもしれません。
真偽は確認していませんが、数式だけで古典物理学の宇宙論の集大成を示したアインスタインは釣り銭の計算が苦手であったと言いますし、江本孟紀の本に出てくる長嶋茂雄が「飲食の際に自ら全員の代金を気前よく支払った上で、その領収書を皆の前で笑顔で破り捨てて見せた」と言う類の謎のエピソードなども、柴田のこの天才ならではの「抜けている」行動と重なるものかもしれません。



 サイトからのお知らせ。
・10/26日 最新のお知らせや重要なサイトの更新は現在特にありません。

・このサイトはグーグルクロム(Google Chrome PC版)に最適化しています。

広告



TOP