相場の動きは機械式に予想できると主張した相場師 手稿3題

相場の真理

「私は本書に古今東西を網羅した証拠を上げて説いている。これを読んでなお将来の観測にはどうかと怪しまれるような方がもしいたら、その方はミミズのように馬に潰されて死ぬよりほかないと申し上げたい。」
「再三いうように、本書のいうところは永久不変の真理であるから、長く子孫に伝えられて、(末代に至っても)断じて(本書が)古本にならないことを、ここに改めて断言する。」
「私は絶対的な信念を持って、ここに示すところは万に一つの誤りなきことを断言してはばからない。」
※()内は注釈。

柴田秋豊は相場の動きがデータの分析から客観的に解明できると言うインスピレーションを生涯持ち続けた、非常に奇異な投資家であり相場研究家でしたが、冒頭の言葉は柴田秋豊の著作の中で柴田が自分自身の開発した相場の観測法の有効性についてその絶対性を説いている部分です。
ゲッベルスはヒトラーの演説を聞いた時に「神か狂気か」と語っていますが、柴田の「断言」には狂気めいたインパクトがあります。

柴田は「機械式」とか「科学的」と言う言葉を好み、「完全に客観的に成績の検証が可能で、しかもトレードの再現が可能なシステムトレード」を長年にわたって研究していたと述べています。

先の断言篇はその目指したシステムの「完成の宣言」に相当するものでしょう。
その著作の中で、柴田は罫線(チャート)だけをよりどころに、個人の一切の主観的な相場観や自己の経験などの裁量による判定を排除した、如何なる相場環境においても有効な投資法を心血を注いで研究したと主張しています。

このような必勝法開発の断言は私の知りうる限り他に例がなく(詐欺的な投資法の広告は別として、例えばジョージ・ソロスのような超一流の投資家と言えどもここまで断定的に儲け方を語ることはなかったと思います)しかもそれが「チャート分析」と言う非常に単純な方法(そこはある意味矛盾に思える部分)であるにもかかわらず、そこに注ぎ込んだ柴田の情熱が奇異であると言うところが私が柴田と言う人物に興味を持つ理由です。

柴田の方法自体が有効かどうかと言うことは別問題として、その憑りつかれたものの方に惹かれるのです。

実は柴田罫線は詳細の説明を行えば絶対普遍云々はともかく、他の有名な指標程度には投資判断の参考になるものなのですが、柴田罫線には現在版権などの制約があり、その具体的な方法は版権の切れる2023年ころまで紹介を控えるべきと考えられるため、そのロジック(柴田は憲法と呼んでいます)のポイントなどの紹介は控えて、この一文では市販の一般書などから拾い上げた範囲内で柴田秋豊の相場史としての生き方そのものを紹介します。

個人的には柴田罫線のロジックよりは柴田秋豊の生き様の方が投資研究のためにより有益な参考になったと言う事です。

伝記的な背景

柴田秋豊は1901年4月2日に富山県の農家に生まれました。
本人の語るところによると貧農の家庭に生まれたとあり、たぶんそれ故だと思いますが、その後、満6歳の時に開拓農民として北海道に移住したとあります。
尋常小学校には柴田本人の強い希望で、普通の子供より一年早く進んだのですが、その他の児童より一歳幼いと言うハンディがあるにもかかわらずかなりの優等生であったそうで、高等小学校までの8年間、成績はすべて「甲」(最上点)の首席で通したと言っています。

本人の弁では開拓農家の一人息子(つまり後継者)であったため、上の学校に進むことを断念し、12歳で実家である開拓農家の経営を始めたと説明しています。

今と違い農地法などの縛りがなく、農家と言っても使用人を使った大農家などもある時代で、北海道などの開拓農家は成功すれば自作農家、あるいは大農家になれる可能性があり、柴田自身、自分が経営に参加するようになって間もない10代のうちに土地を買い広げ、使用人を増やして行ったと語っており、当時は農家の経営と言うもの自体の感覚が今とはかなり違ったものであったようです。

開拓農家には、まさに「北海道ドリーム」と言うような成功ロマンがあったのかもしれません。

当初は農作業の働き手として父親に農家の手伝いを期待されたのでしょうが、本人は事業としての農家を拡大することの面白さを知ったようで、やがて作物の売買交渉なども含めて積極的に農家の経営者としての手腕を振るってゆきます。

さらに、読書が好きだったと言う柴田は耕地や収穫の拡大などの日々の経営に積極的に取り組むと同時に、気象現象や相場の動きで大きく値段が動いた当時の作物の流通や市場、相場のしくみについて普通ではなかなか手に入らないような書籍を蒐集して研究し、やがて農学や経済の仕組みから、穀物相場のしくみ、更に相場の投資法などを独学で身に付けてゆきます。

こうして、15歳頃には父親からコメの売買を任されていた柴田が17歳で小樽穀物取引所に出入りするようになると、独学で身に付けた豊富な知識とともに、より幅広く相場の仕組みや利殖・投資を体得していったと言います。

僅か17歳で既に8.5ヘクタールと言う広大な土地を持つ大農家の地位を手に入れ、また参加した相場では成功を重ねつつ19歳で結婚します。

相場師としての基礎を作った農業経営

柴田が興味深いことを述べています。
当時の穀物価格は今のように農協の買い付け基準や政府の決めた米価などによる安定策がとられておらず、かなり自由な動きだった為、穀物はそれを誰に売るか、いつ売るかと言う判断一つで随分と損益が違っていたと言います。

柴田は著書の中で一例として、自分の作量の半分しか収穫できない農家でも、自分よりはるかに優位な条件で作物を売り抜けることができた場合、その農家が自分の売り上げを上回ることも有り得ると言う話を示して、当時はどの農家経営者にとっても穀物相場の価格変動が重要な関心事であったと語っています。
であるから、当時の農場経営者は本能的にコモディティ相場と言うものを理解し、死活問題として価格の動きを日々体で感じていたと言うようなことを述べています。

この農業経営者の持つ「本能的に」と言う部分が柴田がこの先投資家として成果を上げるときのもっとも重要な点だと思います。

「本能的に」と言うからには柴田は子供のころから自然に穀物の出来具合やその価格や商品相場、それらの相関にかなりの関心を寄せていたと思われます。

とりわけ興味深い点は、昔の農家が「本能的」に作物価格の変化の周期や、その変動要因を身近に感じ取っていたと言う点について、柴田はこれを「人間天性の備わった才覚」と捉えていたようで、戦後は日本政府と米軍の民主的な農業政策のおかげで「その人間としての貴重な本能が退化してしまった」とまで語っています。

相場についての関心が農民元来の本能だと言う主張は現在から見ればやや誤解を招くかもしれないものですが、戦前の日本人にそのような形質があったと言う事は、江戸時代に米の先物相場が大きく発展したことの必然性で納得でき、また、明治期に大阪の相場が旗振り通信で姫路・岡山まで数十分で伝わり、農家では老人子供にいたるまで相場を知っていたと言う資料に照らしても、現代の投資家にも投資の原点を考えるうえで、非常に示唆に富んだ、目から鱗のような新鮮さすら覚えるものです。

そのような時代、環境にあって柴田が本能で相場を理解できていたと考えられるような事例の数々は、柴田その人を相場師の標準モデルの一つとして浮かび上がらせます。
柴田と言う人は生き方も投資法も、またその研究姿勢や発言も全てが投資家としてデフォルメされたようなイメージをもっており、このデフォルメされた「伝統的な相場師の標準モデル像」に伺える興味深い逸話こそが、私がこの雑記を本セミナーに加えた理由と言えます。



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