江戸時代の為替業務と両替商 9つの話題①

両替商とは

両替商は江戸の金貨・大坂の銀貨・全国流通の銅貨(銭貨)と言う、それぞれ仕組みがことなる三種類の通貨の互換性維持のために発達した商売で、本来政庁である幕府が行うような金融システム業務を民間である大坂商人が行っていたものです。

両替商は天下の台所と言われ巨大都市江戸の物品を一手に扱っていた大阪で生まれその後発展しました。
後には江戸でも規模は小さいながら両替商が発達しました。

大坂のに両替商は、本両替、南両替、銭両替の三種と、本両替を取締まる十人両替の四種がありました。
本両替は通常、両替屋と呼ばれて、金貨・銀貨・銭貨の三貨の相互交換を始め、金貸しや為替送金など現代の銀行とそん色のない業務を営んでいました。

これに対して銭両替は主に銭貨と銀貨の交換(江戸なら銭貨と金貨)と言う限られた業務(地域通貨の交換)を主に行う資金も業務も小規模なものでした。

本両替のうち幕府の命令を受けて両替業務全般を監督・管理した十軒の御用両替(十人は建前的な目標値だったようで、実際には定員割れしていたようです)を十人両替と言い、また、銭両替の中の力のあるものが寄り合って講を組み、本両替に準じるような業務を行うようになったものを南両替(本町より南の庶民地区に構成員が多かった)と言いました。

本両替

本両替とは両替商の中でも金貨・銀貨・銅貨のすべてをあつかうことができたもので資金面や信用面で規模の大きい鋳物を本両替と言いました。

両替商は大坂で生まれ、大坂で発展したと言われ、貴金属(金銀)の売買、資金の融資・貸付け、手形の振出し・受け渡し、預金、金貨・銀貨・銅貨の両替を行うほか、諸藩の掛け屋、蔵元を兼ねる者が多く、大名への貸付けでは大口の取引のある藩の場合、その財政をほぼ掌握していた例もあったと言われています。

掛け屋と言うのは諸藩の蔵屋敷に出入りして収蔵の米や物品を販売し、その代金をの管理を行っていた京や大坂の御用商人のことです。

御用商人とは、本来幕府や藩が行うべき財政や金融の管理を委託されて行っていた商人で、藩の金融機関をも兼ねる役割を担い、江戸屋敷、大坂の蔵屋敷や京屋敷、国元間で資金を送金したり、不足分の資金は融資もしたりしました。

蔵元と言うのは、ここでは酒・醤油の醸造元のことではなく、「蔵もの」と呼ばれた諸藩の米や物品の出納を代行していた商人の事で、もとは荘園の倉庫を管理する者をいった言葉です。

大坂の本両替の数は享保期 (西暦1716~36)に三百数十軒あったものが、幕末には百数十軒ほどとなっていました。

これらは本両替仲間を組織して、その仲間から選ばれた十人両替と呼ばれた特に信用と資金力のぬきんでた商人が全両替商を支配していました。

一方で江戸の両替商の中にも本両替はありましたが、大坂に比べれて最盛時でも40軒と数は少なく、中期以降は銭屋と呼ばれる銭貨と金貨と言う江戸ローカルで流通する二通貨の両替を専門に行う中小の両替商の盛況によってその数を減らし、幕末ともなるとその数は4・5軒であったと言います。

また江戸の本両替の場合は、大坂の本両替のような総合金融機関的なものではなく、公金の出納や、三貨の交換が主な業務でした。

十人両替筆頭、天王寺屋

時の政治を行う支配者に対しても影響力を持つような財産と力を物品の売り買いでなしたような商人が登場したのは平安後期あたりだといわれています。

その後武士の時代となると、この物の売り買いで得た財を新興の権力集団である武士に融通するような商人も現れ、戦国時代になると、大名の浮沈が戦を遂行するための財力にかかってきて各大名も豪商達の重要性を無視できなくなります。

こうして戦国大名に取り入って財を成してゆく商人が次第に支配者との結びつきを強めてゆきました。

更に戦のない江戸時代になると、安定した社会によって拡大する大坂の市場で、資金の融資などを通じて物品よりむしろ「金銭」を専門に扱うことで莫大な利益を得るような商人が登場します。

中でも巨大消費都市である江戸に対する物資の一大供給センターであった大坂では、その巨大な流通にもかかわらず、当時は江戸の金貨と大坂の銀貨と言う二重の通貨制度を併用していたことから、これらを互換させて商売を行う必要とその経験から、効率的な貨幣の交換や融通を専門に取り扱う商いが成立するようになります。

そうした背景から大阪の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛が両替商と言う商売を形成していったと言われており、その後の鴻池と言う巨大両替商を生みだす下地を大阪に築いてゆきます。

天王寺屋と言えば「十人両替の筆頭商人」として知られています。

寛文10年(西暦1670年)、大坂町奉行所は「十人両替」という制度を創設します。

これは、大坂の両替商を統轄するための業務を幕府に代わって武士並みの身分を与えられた御用商人に行わせる制度でした。

十人の定員割れはあったものの制度自体は江戸末期まで存続しました。

天王寺屋五兵衛はこの十人両替が制定されたときの序列で「筆頭」としての地位にありましたが、その地位は幕末までほぼ一貫して天王寺屋が担っていました。

天王寺屋五兵衛の出自については、古くは聖徳太子が四天王寺を創建した際に太子の命を受けて資材を調達したことに遡る逸話から、大坂夏の陣で豊臣方についた武将・塙団右衛門の子孫であると言う逸話まで数々の説があるのですが、鴻池家の古文書にある、摂津の遠里小野村出身の大眉吉右衛門秀綱が元和元年(西暦1615年)大坂今橋に移り住んで、天王寺屋を名乗ったとする記述が有力であると考えられています。

鴻池家の文書ではこの大眉吉右衛門秀綱の子である光重が、初代の天王寺屋五兵衛だとされます。

天王寺屋は大坂の豪商として今橋に広大な屋敷を構え両替商としての信用も抜群でした。

今橋にはこの天王寺屋と肩を並べる信用を誇る両替商の豪商、平野屋五兵衛の屋敷もあり、その通りは「二人の五兵衛」の邸宅が並ぶことから「十兵衛横町」とも呼ばれていました。

今もこの地には「天五(天王寺屋五兵衛)に平五(平野屋五兵衛) 十兵衛横町」と刻まれた石碑があります。

天王寺屋、平野屋の他の十人両替としては泉屋(大坂と江戸で両替店を持つ、住友銀行の前身、泉屋は住友財閥家の旧屋号、財閥最後の当主・住友友成はアララギ派の歌人であり雅号を泉幸吉と名乗っている)、鴻池屋などが有名です。

鴻池屋

鴻池は出雲の尼子氏に仕えた十人衆の一人山中鹿之助の子孫である山中新六に始まると言われています。
尼子氏は後に中国の覇者となる毛利氏に滅ぼされますが、このときからくも生き残った山中新六が摂州伊丹の鴻池村に落ち延びて酒造業を始めます。

この新六こそ良く知られた酒造の奇跡と言われる出来事を経て財をなしたその人です。
逸話ではそれまでは白濁色の濁り酒であったどぶろく(日本酒)に、新六とのトラブルを根に持った使用人が腹いせに投げ込んだ灰によって清酒が生まれたとされています。

実際には濁り酒に灰もしくは灰汁がまざって清酒ができるエピソードには別のストーリーもあるようですが、いずれにしても偶然の産物として、新六の酒蔵で清酒が生まれたと言う事はほぼ間違いないようで、この偶然の出来事から、西暦1600年に新六が清酒の製造を始めたことから鴻池は財を成してゆきます。

また、新六の清酒製造によって伊丹が酒どころの地位を確立したこともあって新六の酒屋のブランド力はますます高まってゆきます。

さらに酒造業での成功を基にして、新六の息子新九郎は大坂で鴻池善右衛門(初代)を名乗り海運業を始めます。

秀吉の時代から大阪には京や堺、近江や大和などの商人・商売の人材、ノウハウ、ネットワークがあり、更に日本文化の中枢であり朝廷による格式権威の付与センター、有力寺院群からなる宗教・学問の一大センターでもあった京に近いと言う背景もあり、また事実上の支配者である武家が「士農工商」と言う言葉でわかるように商業・商人を建前上卑賤なものとしていて、武家の中央政庁であり幕府の御膝元である江戸から遠く離れた大坂が経済・商業のの中心であることを黙認していたと言う事情もあって、大坂は「天下の台所」と言われる、消費地江戸への物資供給の一大拠点として発展していました。

この一大商業センター・物資の集積・供給センターとしての機能が発達するのと歩調を合わせるように鴻池の海運業も発展してゆきました。

こうして富を築き上げた鴻池は両替商である天王寺屋や平野屋の地盤であった大坂・今橋で天王寺屋などの商売を参考にして両替商『鴻池屋』を始めます。

江戸時代には大坂は全国の大名の蔵屋敷が立ち並ぶコメなどの大集積地であり、その為の物品を全国から大坂に運び込み、運び出す海運業はさらに盛んになり、同様に両替商による金融ビジネスもますます発展します。

このために鴻池屋は大坂でこの両方のビジネスの中枢を掌握した巨大商店となってゆきます。

「日本の富の七分は大阪にあり、大阪の富の八分は今橋にあり」と言われる場合の「今橋」は鴻池一族を指したともされ、代々の当主は鴻池善右衛門を名乗り、長く繁栄を続けました。

全盛期には全国300諸侯(幕末270候)と言われた大名家のうち110藩が鴻池家から融資を受けていたと言われ、「鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」とまで言われました。

幕末には鴻池家の資産は銀五万貫にも達しており、これは幕府の事実上の全資産を上回っていたと考えられています。



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