日本最古の流通貨幣 4つの話題

索 引(ページ内)
  1. 最古の通貨
  2. 無文銀銭
  3. 富本銭
  4. 和同開珎

最古の通貨

以前は和同開珎が日本最古の貨幣であるとされていた時期もありましたが、江戸時代にはそれより古いと考えられる富本銭と言う貨幣の発見の記録もありました。

そうした議論に一旦決着をつけたのは飛鳥池遺跡の調査で富本銭が実際に見つかったと言う新発見です。

富本銭は、古い記録でも和同開珎以前にあった古銭とされていますが、その生産が国内でなされていたとわかったのは飛鳥池遺跡の調査によるものです。

この富本銭をもって我が国最古の貨幣と見る向きもあり、一説で最初の発行が683年頃ともされています。

しかし、この富本銭=最古の流通貨幣と言う説には各方面から異論も多く、議論の余地もまだまだあるものと思われます。

では、天武天皇の時代とされる富本銭以前にあった「無文銀銭」という何も文字が記されていない円形の銀板(一種のインゴット)が貨幣として使われていたからです。

和銅元(708)年5月、和同開珎銀銭が発行され、同年8月に和同開珎銅銭も発行、これに合わせて翌年8月にはそれ以前に流通していた銀銭の使用を停止すると言う「禁令」が発せられています。

このような事情から、和同開珎発行前に何らかの銀貨が流通していた可能性が高いと考えられているのです。

また、和同開珎自体も以前の銀銭に取って代わることもなく、禁令の発令後も依然として古いインゴット銀銭が使われていたようです。

さて、単に和同開珎と富本銭のどちらが古いかと言えば、まず古いのは富本銭であろうと考えられていますが、富本銭はその鋳造後に流通した形跡が今のところ見つかっていないことから、これは流通貨幣とは言えず、本格的な流通貨幣としての最初のものは和同開珎とするのが適当とする考えがあるわけです。

また、最古の国産貨幣と言う視点で見ても、富本銭より無文銀銭の方が古いとする考えが今は有力です。

このように富本銭の地位は微妙なものとなっています。

いずれにしても、見解のわかれるところながら…現状では、最古の貨幣である無文銀線、最古の鋳造硬貨である富本銭、最古の流通銅貨である和同開珎の三つのうちのいずれかが我が国最古の貨幣であろうと考えられています。

無文銀銭

無文銀線は滋賀県の崇福寺(西暦668年創建)と言う廃寺の遺跡から出土した舎利容器(釈迦の骨が入っているとされる容器・国宝)とともに見つかった11枚のコインです。

今ではこの銀銭こそが日本でつくられた最も古い流通通貨であろうと言う事になっています。

以前から日本最初の貨幣であると言われていた和同開珎は西暦708年につくられたものとされています。
しかし、無文銀銭はそれより40年ほども前の天智天皇の近江京の時代(667~672)に使われていと考えられており、先ごろ奈良県・飛鳥池遺跡で出土して日本最古の貨幣ではないかと話題になった富本銭よりも古いとされています。

一方で今話題の富本銭は西暦683年の天武天皇の時代の銅銭とされるので、無文銀銭はそれよりも更に10年ほど古い事になります。

この銀銭の特徴は古い貨幣によくある中央の穴が四角形ではなく、小さな孔があいているだけであるのと、貨幣の価値や由来を表す文字がないこと、普通古銭と言われるものが鋳造によって規格を守って作られているのに対して銀板をたたいてかなり不揃いに成形してあると言うことです。

その形状の不統一さにとどまらず、無文銀銭は質量も不揃いで、8gから10gとバラツキがかなりあります。
これは硬貨の製造技術がまだまだ未熟であった時代に朝廷が中国の穴の開いた銅貨などを意識して作ったものであるとも考えられますが、当時(7世紀後半)はこのような規格のあまい貨幣でも流通はしたようです。

流通していたとされる根拠としては、大阪・奈良・京都・滋賀・三重などの近畿地方を中心とした15ほどの遺跡からの出土例が挙げられますが、いずれも数は少なく、まとまって残っていた例としては崇福寺跡出土の11枚が最大です。

このため貨幣としての流通の痕跡はあったとされるものの、その普及の程度については未だはっきりしていません。

富本銭

江戸時代は版画印刷でいろんな本や絵などが一般に普及し、カタログ的なものや番付的なものが庶民に非常に人気があったようですが、富本銭は寛政10年(西暦1798年)の、いわば江戸の古銭カタログといった趣の本に「富本七星銭」の名前で銭の図柄と共に載っていて、早くから貨幣研究者の間では知られていたようです。

当初は本当に流通した貨幣なのか、時代がどれほど古いものなのか、と言った疑問があって、また現物がないこともあって真偽が怪しいもののようにも考えられていたようですが、昭和44年(西暦1969年)に平城京跡から実際に現物が発掘されたことをきっかけに、それがどれほど古い起源をもつものかと言った興味の対象になってゆきました。

平成3年(西暦1991年)には、平城京より更に古い地層である藤原京跡から発掘されたことから、それまで最古の貨幣と考えられていた和同開珎より古いものではないかとの期待が一気に湧き上がりました。

その期待が現実味をおびることになったのが、西暦1999年の飛鳥池遺跡からの発見です。

この発見がそれまでに発見されていた五枚の富本銭と大きく違うところは、発掘場所や、出土した時の状態等から見て、発掘地である飛鳥で鋳造されたものと考えられる条件が揃っていることや、富本銭が埋まっていた地層から同時に出土した木簡や古寺の瓦などの遺物が傍証となって、造られた年代がほぼ七世紀後半と確認できたこと、さらに日本書紀に「今(西暦687年)よりは銅銭を用いよ」とある、謎の「銅銭」こそこの「富本銭」である可能性が出てきたことなど、考古学的な研究素材として非常に価値の高いものであった点です。

また、謎とされた「富本」という文字の意味が、新しい研究から唐の「芸文類聚」という本に「民を富ませる本は食と貨(貨幣)だ」とあることに由来すると推測されるようになったことも富本銭の存在意義を高めています。

ただこの富本銭には今のところ出土の状況などから通貨として流通していたらしいと言う証拠がありません。

まじないや葬式などの宗教的な行事の目的で使われた古銭型のアイテムではないかと言う指摘も依然として強く、これが通貨ではなかったと言う研究もあるようです。

また、それまで唐の通貨を使っていたことを改めて、国産の独自通貨を製造、流通、普及させる目的のためのパイロット版の通貨であったと言う見方もあり、現状ではやはり流通していなかったと言う考えが主流となっているようです。

ちなみに2012年にテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出品された富本銭は本人評価額500万円に対して、番組鑑定士の鑑定額1000万円と言う結果でした。

銅銭一文とは言え、これが本当に我が国で最古の通貨なら、1000万円と言う評価はやや微妙なところですが、もし流通の証拠となるような大量発見があれば、この評価額は更になかなか微妙なものになるようにも思えます。

和同開珎

和同開珎は西暦710年から造営がはじまった平城京の工事人足の賃金を捻出することを目的としてつくられたと言われています。

これは708年に武蔵国・秩父から朝廷に献上された自然銅を平城京建設の資金に充てたと考えられます。
和同開珎の「和同」とは「和銅」秩父から献上された銅の事で、つまり日本で銅が算出したことを祝ったことに由来します。

この時の元号も和銅とされました。

最初は一日の日当を和同開珎1枚(一文)としていたようですが、その後は贋金の出現や貨幣価値の下落によってこの賃金水準の維持は困難となっています。

当時の一文の価値はどのくらいかと言うのが難しいところですが、天平8年(西暦736年)頃に土器の椀2個が1文であったことが出土した木製の値札からわかると言います。

当時の朝廷は朝廷における身分の序列(位階)を銭で買う蓄銭叙位令などを利用して、通貨の普及を図ったようですが、その為に必要な通貨の量は畿内以外では極端に不足しており、地方では米や布を物品通貨の代用品として利用する交易をおこなっていたような状況で、こうした鋳造した貨幣の普及には限界もあったようです。

鋳造貨幣である和同開珎がつくられたのは平城京に近い京都府の南部や、当時銅山のあった山口県などでした。
京都府加茂町の鋳銭司遺跡からは銅銭の鋳造に使われたと思われる、銅を溶かすための堝やふいごの羽口などが出土しています。

和同開珎が通貨として一定の機能を果たしていたことは、石川県金沢市町のサコ山遺跡から一度に545枚も出土したことからもほぼ間違いないと考えられています。

「和同」は「和銅」をより縁起の良い文字に置き換えたものです。

また「開珎」の「珎」の字は「寶」という字の略字でつまり「開寶」であり、これは中国の唐代の貨幣である開元通寶を模したものです。

国産の唐銭、すなわち国産の「開元通寶」であると言う意味合いかと思われます。



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