大坂の豪商淀屋の出てくる落語、雁風呂、木津の勘輔
淀屋が出てくる上方噺に「雁風呂」と言うのがあります。
水戸光圀がお供と上方に上る途中で(いまなら関西に下るわけですが)立ち寄った飯屋で土佐将監の屏風をみつけます。
それぞれ学識のありそうなお侍の一行なのでそれが将監とまでは読み解くのですが、なぜかその絵はかりがね(雁)が松ノ木と一緒に描かれています。
松ノ木と言えば正当な絵師なら鶴を描くと言うのが日本画の常識なので、一同このなぞに頭をかかえることになります。
そこに入ってきたのが、主と番頭と荷持ちらしい風体の三人連れの町人で、席に着くなり奥の小座敷の屏風を見つけた主人が番頭にあれは何かわかるかとたずねます。
番頭は「なんぼわたしがあほでもあのくらいのもんはわかりますわいな、(土佐)光信の雁風呂でっしゃろ・・」といとも簡単に絵解きを始めます。
これを聞いていた光圀がお供のものに、あれなる町人をここに呼んで絵解きをさせよと命じるので、お供はあのような卑しきものを・・とためらいつつもしぶしぶ町人を座敷に呼びます。
光圀一行の風体は郷士風ですが、ただならぬ威厳を感じつつ恐れ入って進み出た町人が自分のなまじっかの知識をひけらかすことを恥じていつまでもためらっていると、光圀のお供がついに業を煮やして光圀の正体をあかします。
一方の町人は光圀への直言を怖れてお供の侍の方に「自分はおとりつぶしにあった淀屋辰五郎」だと告げます。
光圀の正体を知って、土間に転げ落ちてますます恐れ入る町人を光圀が諭し直言を許すから是非教えてくれと懇願するので、やむ得ず町人は子供の頃に親に聞いた話の聞きかじりなどと謙遜しながら絵解きを始めます。
これは函館の雁風呂というものでございます・・。
渡り鳥である雁が常盤の国にわたる際に海に浮かべて羽を休めるための松の小枝をここでくわえてまた帰ってきたらここに置くのですが、それは毎年無数の松の枝が残るので死んだ雁の供養にその残った枝で風呂を焚いて旅人をもてなした、と言う由来を描いたもので、雁に松の構図は決して将監の腕に任せた奢りでも絵空事でもないのだとしめくくります。
これには光圀も感心し辰五郎に道中の供を頼みますが辰五郎は、踏み倒されそうな貸し金の取立てに江戸に行くところだといいます。
金の借り手は老中柳沢吉保です。
これに光圀が同行が出来ないことを惜しみつつも柳沢と水戸屋敷にあてた添え状を与えて分かれると言う、卑しい町人に光圀が教えを請って御礼をすると言うかなり良くできた光圀譚です。
上方噺には淀屋が出てくる「木津の勘輔」というのもあります。
こちらは講談がオリジナルと思われる話ですが、墓参りで財布の忘れ物をした豪商の淀屋十兵衛に木津の勘輔というみすぼらしい百姓が寺の坊主に頼まれてその忘れ物を返しに来るところから話が始まります。
入ってくるなり十兵衛の名を呼び捨てで呼び出す勘輔に番頭が苦戦しているところに主の十兵衛が現れると、勘輔が乱暴な言葉でわざわざ持ってきてやったといいつつ財布を返してお礼に差し出された十両の金に見向きもせずに帰ろうとします。
当事の十両と言えば奉公人の5年分から10年分の給金、盗めば首が飛ぶほどの大金です。
その大金に全く関心すら示さない勘輔に驚いて、十兵衛が呼び止めようとすると、「自分の墓はどれだけ立派か知らないが、財布を他人の小さな墓石の上にまるでそこをもの置き場につかったかのように置き忘れていたことに腹がたった」と文句をいいます。
これに十兵衛が思い当たり深々とわびると、天下の豪商があまりにもすなおに誤る姿に、今度は勘輔が逆に驚いて十兵衛にそれまでの非礼をわびると言う展開で、こうして大金持ちと貧しい百姓の「釣り馬鹿日誌」のような対等の付き合いがはじまります。
後に勘輔は縁あって十兵衛の娘の「おなお」と所帯を持ち、やがて(勘輔の)義侠心と淀屋の途方もない財力を持って大阪の町人や百姓のために尽くして大阪にその名を残したと言う話です。
この話の中でおなおが巨額の持参金を持っていることを勘輔が知るきっかけとして、勘輔が世話になっている大家である米屋の主が米相場で失敗して200両の借金をして首を括ろうとすると言うエピソードが出てきます。
つまり大阪では当事すでに大国町(今はビル街ですが)あたりの小さな米屋も先物取引に手を出していたと言う話です。
これを勘輔がなんとか助けてやりたいと愚痴をこぼして打ち明けたところ、おなおが実はとりあえずの持参金が3000両あるから、どうぞ自由に使ってくださいと請け出しの証文を差し出すのです。
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