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江戸時代の三通貨

江戸時代に初めてできた統制された通貨制度、三貨制度を支えた「両替商」、三種類の通貨の価値と公定交換比率、江戸時代の三貨制度以外にあったもう一つの通貨制度

江戸時代に初めてできた統制された通貨制度

日本では秀吉の時代になってもなお、支配者による通貨・貨幣の組織的な管理と言う事は行われていなかったと言われています。

流通と目的とした貨幣が作られたことはありましたが、それらは江戸時代以前の中心的な流通貨幣が「永楽通宝」などの中国の銅銭をそのまま使ったものだったことを見ても、組織的な貨幣制度を作るための通貨鋳造と言う目的とは言えず、中国製の銅貨の不足分を補ったり、貨幣による流通に支配者として一定の介入をすると言ったものにとどまっていました。

これに対して家康の徳川幕府は組織的な通貨管理を目的とした、通貨制度の制定や貨幣の鋳造を行うようになります。

このために幕府はまず全国の主要な金山、銀山を直轄地にして通貨の材料となる貴金属の生産とその流通を支配します。

家康は金山から算出される金を元にして1601年にまず慶長小判と言う金貨を発行します。

小判一枚は一両と言う単位とされ、更に少額貨幣として「分」「朱」と言う金貨を発行します。

後に一枚十両の「大判」という金貨も発行され、「大判小判」などと「小判」と併称されますが、これは恩賞として特別に作られたもので一般に流通はしませんでした。

今で言えば記念硬貨的な大判を除くと、流通した金貨は小判、二分金、一分金、二朱金、一朱金の五種類で、一朱金貨四枚が一分金貨一枚と交換でき、更にこの一分金貨四枚で一両の小判一枚と交換できると言う、四進法となっていました。

これは当時の貨幣制度が金の含有量による金本位通貨制であったため、実際に流通する形状を金で作ると、このような量目の形状が現実的であったためと思われます。

つまり、一両金貨(小判)一枚 = 二分金貨二枚 = 一分金貨四枚 = 二朱金貨八枚 = 一朱金貨十六枚と言う事になります。

一両二分と言えば1.2両ではなく、1.5両となるわけです。

この小判による金貨の制度は幕府のおひざ元である江戸で主に使われるようになります。

幕府はこの小判とほぼ同時期に銀による貨幣である慶長丁銀と言う銀貨を発行します。

これは、金の産出量の限界を埋めるための措置とも思われ、江戸に集中した金貨の不足分を、大阪などの上方と言う巨大流通市場で補う役割を果たしました。

慶長丁銀の少額貨幣としては豆板銀(まめいたぎん)と言うものが鋳造されましたが、これらはどれも小判と違って形も重さも不規則であくまでも重量が問題とされ、一々軽量してつかわれていました。

これは銀は金よりは一般的に装飾品などに使われるため、当初幕府は鋳潰して転用されることを想定していたためかもしれません。

つまり銀の場合は貨幣と言うより不規則なインゴットのようなもので、慶長丁銀や豆板銀は切り分けられて使われたり、重さを量って、あらかじめひとまとめに紙に包んだものが使われたりと、貨幣としてはかなり面倒くさい使われ方をしていました。

やがてこの幕府の銀貨が定着してくると御上の定めた通貨である丁銀を切って使うと言う事は流石にはばかられて行われなくなりますが、「銀貨は目方」と言う金貨(小判)とは異なる通貨としての性格はその後も変わることはありませんでした。

インゴットとも言える銀貨の単位は江戸時代の重さの単位であった尺貫法をそのまま使っており、「貫(かん)」「匁(もんめ)」「分(ふん)」「厘(りん)」「毛(もう)」と言うものでした。

尺貫法では一貫は千匁、一匁は十分、一分は十厘、一厘は十毛、となりこちらは金貨とは違って十進法です。

こちらは金貨が量的に行き渡らなかった上方(京・大坂)で商人によって用いられるようになり、「江戸の金づかい、上方の銀づかい」と言って日本は西と東で二つの通貨制度が並立することになります。

但し、金貨や銀貨は言わば高額貨幣であり、主に武家や商家に使われており、一般の庶民はあいかわらず日本の古貨を用いたり、中国の貨幣を用いた一銭銅貨と言うものを使用していました。

そこで幕府は三代家光の時代に、国内で流通していた古銭や永楽通宝のような中国の貨幣を回収し、時間をかけて幕府の自主鋳造貨幣である「寛永通宝」に置き換えてゆきました。

これは銭貨と呼ばれ、銅銭が基本ですが、時代によっては鉄製や真鍮製のものも作られました。

銭貨の単位は「文」と「貫文」で、1貫文が千文。

通貨としては最少通貨である一文銭とそれよりやや大きめの四文銭が流通していました。

この通貨はよく一文銭と呼ばれますが、一文と一銭の関係はと言うと、江戸時代の一文銭は一文、明治期にこれが一銭と呼ばれるようになります。

これは明治政府が米国の通貨制度を模して通貨制度を作った時に1ドル100セントを一円百銭としたもので、「銭」は「セント」をもじった呼称だったようで、そのために「文」と言う呼称がなくなったようです。

古典落語で一文二文と数えていれば江戸時代の話、一銭二銭と数えていれば明治、大正、戦前までの昭和の話と言う事になります。

庶民や小商いの商売人は、この一文銭を主に使っていたようなのですが、これを金貨などに交換するには手数料も要ったことから、一文銭はサシ(銭緡-ゼニサシ)と呼ばれる細い藁縄などの紐を穴に通して、百枚一組として使われることも多かったようです。

サシは百枚一組と言っても実際には銭百枚の数え賃の四文を差し引いた九十六文がひとくくりだったと言いますから、現代の感覚ではわかりにくいながら江戸時代らしい話です。

先述の一貫文というのはそういう貨幣があったわけではなく、このサシでつないだ一文銭の束を数えるための単位でした。

こうして江戸時代にはそれぞれ独立した性格の三種類の通貨が並行して使われていました。

金貨、銀貨、銭貨の三種類の貨幣は、それぞれ幕府が管轄する鋳造所である「金座」「銀座」「銭座」でつくられていました。

金座は江戸の本石町(現・中央区日本橋本石町)にありました。

江戸自体初期には江戸、駿府、京、佐渡にありましたが、のち江戸にの金座に集約されます。

銀座も当初は京、駿府、大坂、長崎にありましたが、金座同様、後に江戸に統合されました。

現在も「銀座」は東京銀座として地名が残っていますが、これは駿府の銀座を江戸に移したために地名もこれに由来したものになったもので、一方の駿府の銀座の跡地は「両替町」という地名になっています。

また、銭座は江戸の芝網縄手と近江坂本にあったそうです。

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三貨制度を支えた「両替商」

江戸時代には江戸の金貨、上方の銀貨、庶民の銭貨の三種類の貨幣がそれぞれ流通していましたが、これらの互換性を担っていたのは御上ではなく両替商と言う商人たちでした。

三種類の通貨制度は商人たちによって相互に交換が可能な変動相場制で維持されていたのです。

幕府はこれらの交換比率を固定した公定相場を定めようと何度か試みますが、結局幕末までそれは果たせませんでした。

このため江戸と上方では異なる通貨の交換がとても複雑になっていたのですが、それを両替手数料を取って専門的に、行っていたのが両替商です。

中でも大坂の鴻池と三越百貨店の前身である江戸の三井が特に有名でした。

三井の両替は呉服店として有名だった豪商「三井越後屋」が始めたもので、現在の三井住友銀行のルーツの一つです。

両替商は主に金貨、銀貨、銭貨の両替を行って手数料を稼ぐ稼業ですが、その他にも、大金を預かったり、遠方への送金業務を代行したり、また余剰資金で金貸しをしたり、為替や手形の発行なども行ったりとお金に関する業務全般を行う銀行のような役割をしていました。

また、為替差益、交換相場の差益などで稼ぐ言わばFX投資のようなことも行っていました。

有名な両替商は豪商であったため、これの一部を真似する商家もあらわれるようになり、庶民相手に両替などを行う「脇両替」と呼ばれる副業の両替商もありました。

特に大店の質屋や酒屋などはかなり大きくやっていたようです。

今の地図記号にある銀行のマークは当時の両替商の看板の目印が元になっています。

江戸時代は武士がお金に関わることをその思想的な見栄から表だって行うことができなかったため金融の中枢は商人が握ることになったわけです。

武士の考えでは金貸しなどは身分の高い人間や高潔な人間の行う事ではなかったのです。

ところが、明治になってあらゆるものを西洋から学ぼうと言うことになって、金融についても西洋の合理的な考え方が浸透してきたことにより、政府もお金に関わる細かなメカニズムを司るようになり、やがて両替商の業務は政府や西洋式の銀行が行うようになってくると、両替商そのものは次第に姿を消してゆきます。

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三種類の通貨の価値と公定交換比率

三通貨の交換比率はこの制度が制定された当初の17世紀の公定相場で金一両=銀50匁=銭4000文でした。

これが17世紀末から18世紀初頭に元禄の改鋳と言う貨幣の吹き替え(貨幣純度の変更)が行われた際には、銀の価値が下がって、金一両=銀60匁=銭4千文に改訂されますが、実際はこのころはその時々の相場で交換比率が変る変動制になっていました。

つまりこのころには三通貨の相互交換は商人がその基準で相場を形成して行っていたわけです。

この元禄の改鋳の後に物価上昇が起きて経済が混乱したことから、新井白石はこれを貨幣の純度を下げたことによる弊害であると説き、その提言によって1714年に以前の慶長金銀と同品位に含有量を引き上げる改鋳を実施する正徳の改鋳が行われます。

江戸時代は貨幣の改鋳のたびにその品位が落ちていたことから見て、この改鋳は江戸時代を通して唯一含有比率を上げたもので、幕府貨幣価値の復権を目指したものでしたが、この改鋳で貨幣量が激減したために、その後武士の給与であるコメの値段の下落を招きます。

江戸時代は時代が進むにつれて金山の産出量が枯渇し始めていたことからみても、この改鋳は無謀であったと言えます。

そこで幕府は18世紀半ばにかけて、再び金銀貨の品位を引き下げた元文の改鋳を行い、これにより、経済情勢はどうにか好転し、元文小判はその後約80年にわたり安定的に流通しました。

このころの公定の交換比率は金一両=銀60匁=銭5千文でしたが、もはや元禄の改鋳以降、実際の両替相場は変動相場となっていました。

18世紀後半、老中田沼意次は、東西の主力貨幣、つまり係数貨幣である金貨と軽量貨幣である銀貨の二制度による複雑な貨幣流通が経済の発展を妨げていると考え、銀貨の計数貨幣化を謀って、南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)と言う銀貨を発行します。

これは銀貨でありながら金貨二朱に相当するというもので、それまでの銀貨のように一々重さをはかる必要のないものであり、またこの南鐐二朱銀は金貨と銀貨との互換性を保証した貨幣でこの銀貨8枚で小判金一両と交換できるとされました。

「南鐐」(なんりょう)とは良質の銀を意味し、金銀の換算率の統一を目指して純度98%の高純度銀を用い、更にその硬貨の側面に偽造防止のための「小花印」が打刻されていました。

しかし、この幕府貨幣制度の近代化、合理化ともいえる一大事業は莫大な通貨の交換で利益を上げていた両替商の既得権益を侵したためか、のちに老中松平定信によって潰されてしまいます。

19世紀半ばを過ぎたこのころになると公定の交換比率は金一両=銀150匁=銭10貫文(一万文)となり、貨幣はもはや発行過剰のインフレ状態となっていてその価値をかなり落としてゆきます。

このように三貨制度は比率を変えて何度か制定され、また思い切った合理化も試されますが、結局三貨並立の変動相場と言う状況は幕末まで変わることがなく、もはや両替商の存在なしにはそれらの円滑な交換すら難しいものとなっていました。

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江戸時代の三貨制度以外にあったもう一つの通貨制度

幕府は貨幣制度として金貨や銀貨を制定したのですが、それらは江戸と上方の流通分でもはや量的な余裕がなくなったとも言われています。

そこで各藩では藩内で限定的に通用する紙幣として「藩札」を発行して不足した幕府発行の通貨を穴埋めし、金融システムを維持していたようです。

この藩札は全国の八割ほどの藩で使われていたようですが、幕府発行の通貨とは異なり発行した藩内でしか流通できませんでした。

極端な話、ほかの藩では紙切れ同然であったとも言えます。

幕府による取り潰しにあった藩などでは藩札の所有者は悲惨なことになりました。

更に藩のなかには藩の財政難を解決する手段として藩札を大量に発行すると言う無茶をしたところもあったようですが、当然のことながら、そういうことをすると経済の混乱を招き、結果として、それは幕府による藩取り潰しの口実を与えることにもなりました。

江戸幕府は戦国時代の教訓をもとに強力な中央集権国家を築いたようにも見えますが、基本である幕藩制度自体が中央の強い連邦国家制度と言う意味合いのものであって曖昧な連邦制が存在していたために、通貨制度にしても完全に近代的なものとはなしえなかったようです。

また、先述のように身分制度による偏見から国家の経済政策ですら商人をコントロールしきれなかったと言う問題もあります。

百姓からは年貢を取るのに商人からは年貢を徴収できなかったと言うのも、武士は商行為というものを浅ましい行為、不純な行為として差別していたためとも言われ、そうした浅ましい商行為が生み出した卑しい金を立派な武士が徴収するのをはばかったためとされています。

藩札の存在を見れば始めて組織的な通貨制度を作ったと言う幕府の通貨政策が実はまだまだ未熟なものであったと言わざるを得ません。

元々は城下町に商人を呼び寄せるための商人への免税がいつの間にか太平の中で武士は食わねど高楊枝…的な武士の美学となり、商人や商行為に関与しづらくなっていったわけで、その一方で大坂の商人は武士の作った非合理的な経済政策の弱点を商機に変えて、先物相場や為替相場と言った世界に先駆けた金融システムを作り上げ、それを駆使して、一国の経済の根幹を動かしてゆくことになりました。

武家の商法と言うのがありますが、こうしたことは幕府の経済政策が未熟であったためと思います。

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