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小判一枚の現代の価値、3つのアングル

給与から見た江戸時代の貨幣価値、物価から見た江戸時代の貨幣価値、娯楽への支出から見た江戸時代の貨幣価値

小判の値打ち

時代劇で目にする一両小判、現在の通貨価値に換算すると、はたしてどのくらいの価値があるのでしょうか?

例えば一両で当時の経済・流通の基本でもあったコメをどのくらい買えるかと言った単純な見方なら、長い江戸時代の時代ごとの米価の差はあってもおよそのことは言えそうですが、ではコメ以外の他のものがどのくらい買えるかとなると、コメで換算した通貨価値と大きくかけ離れる場合もあって、なかなか単純に「一両には現代で言えば何万円の価値がある」などとは言い切れないところがあります。

そこで、江戸時代の通貨価値を現代の価値として明確に表現できない以上、それを多角的に比較してみつつ、断片としての印象を重ねることで価値を感じてみるしかありません。

と言う事で、まずは、その価値を給与と言う視点から見てゆきます。

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給与から見た江戸時代の貨幣価値

一両の価値を、給金(サラリー)でみると、19世紀初頭のある資料では当時給金が比較的良かったとされる大工の日当が銀4匁2分とされています。

大工の場合この他に食事などの手当のようなものが銀1匁2分ついたとあります。

ここから年間の実稼働を300日として大工の年収を割り出すと、給金の合計が銀一貫五百匁程度、これを金貨である両に換算するとおよそ25両ほどになり、大工は月にしておよそ二両ほど稼いでいたことになります。

「10両盗めば首が飛ぶ」と言われた時代、年25両と言うと、四年働けば100両ということですから大工の給金はかなりの大金のようです。

つまり大工は高額所得者とも考えられますが、落語などでは大工の棟梁も長屋住まい(一般の長屋よりは広そうな二階建ての物件などが良く登場します)をしており、やや矛盾した印象もありますが、江戸っ子の場合収入の多い分出費も多かったと言う事はあるかも知れません。

一般の奉公人の場合こうはいかず、女中なら食事と住居、衣装(御仕着せと言う店着)は店持ちと言う条件ながら、各種の資料からの総合換算値をみるとその給金はおよそ一年に2~3両程度であったとされていますのでこちらの方が一般庶民の一両の価値の実感に近いと考えられます。

時代劇ではおなじみの八丁堀同心の場合、その給与は米で支給されており、その年間の支給量が30俵であったとされています。

これに2人扶持(食事などの手当て分-二人扶持とは二人分の食い扶持)として10俵があてがわれて実給が40俵程度であったとして、一俵がおよそ60㎏ですから、単純に上米1kgが千円としてみて一俵当たり60万円、年収で240万円ほどという見当で見ることも出来ますが、当時はコメ一石がおよそ一両と言う話もあるので、一石=十斗、一俵=四斗(0.4両)として計算すれば、四十俵は16両ほどとなり、テレビの歴史番組などでよく言われている一両が10万円~15万円とする計算方法でもその年収はおよそ二百万円ほどと言う事になります。

単純化したおよその計算結果とは言え、これで一家で食べてゆきつつ、小物(岡っ引きなどの探偵)にそれなりの小遣い(パート代)を与えていたとなると、やはり時代劇でよくあるように商家などから賄賂を貰っていたと言う事にはやむを得ないところもあったようです。

当時の町家(商人)は幕府に税金など収めていなかったため、その代わりに、こうした役人(下級武士)やその小物(探偵)に警備料としての金銭を支払うのが慣例であったようで、役人や小物は実際はそれなりにやって行けたとも言われています。

もし本当にそれが税金の代わりであると言う認識が一般的だったのであれば、時代劇のように受け取る方が威張っていたのも頷けます。

時代劇では町人やヤクザが下級の侍を侮蔑的に「やい!サンピン!!」などと呼びますが、ちなみにサンピン侍と言われる最下層の屋敷勤めの武士の年収は三両一分(三一=サンピン)であったと言われていて商家の女中や下働きとほぼ同等の待遇でした。

赤穂浪士の寺坂吉衛門がとても貧しい姿で描かれることが多いのは下層の屋敷侍が小物と変らぬ程度の待遇であったためと言う背景があるわけです。

年収百石程度の下層の旗本の家来を考えてみれば(年収800万円~1500万円程度の家に複数の家臣や奉公人がいるわけですから)それも頷けます。

一方農民はと言うと、自分の土地を持つ本百姓と、小作農である水飲み百姓とではかなりその事情は違ったはずですが、本百姓で言えば年貢から得られるコメによる収入が一説では平均で年50両ほどとされていますので、その支配する農地面積や小作人の数に応じて、下は年収10両20両のものがあっても上は相当な金持ちもいたはずです。

酒田五法の相場師、本間宗久の実家は山形県酒田市の豪農でしたが、酒田に残る戯れ歌では本間家は大名が足元にも及ばぬ金持ちであったと歌われています。

コメは領主に対し取り決めに従って年貢を納める義務を定められた作物でしたが、コメ以外のその他の作物や、産品(藩の命令などで作ったものは除いて)、それに付随する商いや相場で得た所得については商家同様に無税であったので、本百姓については裕福なものもかなりいたと思われます。

江戸時代に何度か発布された贅沢禁止令が商家だけでなく、百姓を対象としたものもあったことでもこれは頷けます。

こうして見てくると、なんとか世間で質素に暮らすと言う生活を考えると、一人暮らしなら年五両から十両で送れたものと思われますし、当時の共働きがほとんどない時代に「一人で食えなくても二人所帯は食える」などとも言われたので、二人所帯でも最低限の暮らしならほぼその程度の実入りで賄えた可能性が高いと思われます。

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物価から見た江戸時代の貨幣価値

では、次に物価と言う視点で江戸時代の貨幣価値を見てゆきます。

元禄年間に限れば、実感として一両が7万円から10万円であったと言うような資料も見受けますが、給与以外の物価でみることでもう少し実感としてのフィーリングがつかめるかもしれません。

1両を仮に10万円として、当時の物価を考えるために、その他の貨幣単位(金貨銀銭銅銭で異なっていたため)のおよその換算値を比べると、江戸時代の基準が、金1両=銀60匁=銅銭4000文とされているので、銀一匁=1700円、銅一文=25円、ということになります。

江戸二百数十年の時節ごとの物価の変化や、各貨幣の交換レートの誤差を考慮して金一両であれば±5万円、銀一匁なら±700円、銅一文であれば±10円程度(やや幅が広いですが、この程度の誤差が実態と合っていると思われます)の感覚で以下を見てみてください。

  1. 金一両=10万円±5万円
  2. 銀一匁=1700円±7百円
  3. 銅一文=25円±10円

…このフィーリングを頭に入れて以下の記事を読み進めてみてください。

19世紀初頭の資料では、四畳半2間の裏長屋の家賃が年間で銀120匁。

また、最も一般的と言われた「九尺二間」と呼ばれる台所込の四畳半の部屋で先の四畳半二間の約七割にあたる月額400文程度と言う資料もあります。

家族3人(夫婦と子ども1人)のコメ代が一年分でおおそ銀120匁。

薪代・灯り油などの光熱費や塩・黒砂糖・醤油などの主食以外の食費を含めた生活雑費が年間700匁。

…とされており、貧乏な家では調味料・副食や、薪代、灯りの油代を切り詰めていたようです。

その他の生活費では、下駄1足が100文、草履(ぞうり)なら1足8文、また、蒸し羊羹1本が213文、これは当時砂糖が高価であったためです。

黒砂糖なら600gが120文だったとありますが、白糖は長崎経由の輸入品であったためそれなりに高価なものでした。

ちなみに貧乏人が空腹を抑えるために砂糖をチビチビ舐めたと言うような話もあるそうですが、これは屋台の蕎麦一杯分で80gほど買えたと思われる黒糖の事ではないかと思われます。

映画「武士の家計簿」では妊娠した妻が高価な白糖を滋養薬として貰い、それをとてもありがたがっていたシーンがあったように思います。

その他、銭湯の入浴料が5~12文(大人8文、子供6文と金額が固定された資料もあります)、床屋や髪結床の利用料は男性でおよそ30文ぐらいだったとされています。

落語だと滅多に湯に行かない人が良く出てきますが、銭湯も大工のような日当が高額な職人でもない場合、そうそう毎日と言う訳には行かなかったようです。

この他の生活費では衣類代があります。

昔は反物を買ったり、古着を買って解体し自分で仕立てたり、ツギあてをしたり、あるいは内職の仕立て屋(手間賃はかなり安かったと言う話もあります)に出すのが普通で、既成の着物がいくらと言う資料がなかなかないのですが、6尺ふんどし(六尺のサラシ布)を買うと250文と言うことが資料にあるので、ここから考えると江戸時代は木綿の布地と言えども庶民にはそれなりに高級品であったことが想像できます。

ちなみに、頻繁に火事が起こる江戸では、庶民は最低限の家財道具しか持たなかったと言われており、このために繁盛した「損料屋」と言われるレンタルショップでは、着物、布団・枕、櫛(くし)・簪(かんざし)、調度品、などに加えて人気の貸し出し商品としてふんどしがあったと言われるので、ふんどしも買うとなると庶民には高価であったのでレンタルで済ませていたのかもしれません。

古典落語の饅頭怖いでは怖いものや苦手なものを尋ねられた職人がノリのきいたふんどしがゴワゴワしてコワい(硬い)…みたいなシャレを言うシーンがありますが、褌にノリが効いているなどは実はレンタルのふんどしのエピソードが元になった話かもしれません。

医療費は現代と違って健康保険などがなかったため、町医者の往診なら一週間分の薬を出して貰って一分から二分(数万円 - - 一両は四分)の薬礼が普通であったといいます。

当然、これは庶民にはかなりの負担であったため、普通は健康を損ねた場合、針・灸・按摩・薬売りなどが庶民の頼る医療でした。

薬の値段の資料がなかなかありませんし、特に医者に支払う薬代の場合、きちんとした価格体系すらなかったようです。

但し、世間相場というものがあり、その資料ならいくらか残っています。

例えばこの世間相場をもとに加賀前田が制定したとされる薬価体系によると「煎薬1貼(1服)8文・丸薬1貼16文・針7日分50文」とあり、ここから置き薬が一包み数文から十数文であったろうと想像することができます。

ちなみに座頭(盲人)の按摩は一回に50文でした。

落語の「時うどん、あるいは時蕎麦」では屋台のうどん屋(上方噺)も屋台の蕎麦屋(江戸噺)もどちらも一杯が16文となっており、蕎麦は二八蕎麦と言ってニハチの16文と決まっていたともいいますが(ニハチには小麦粉と蕎麦粉の割合が2:8であるためと言う説もあります)この話は元が上方噺なので話の通り、当時の大坂の屋台のうどんも16文であったと思われます。

また、飲食店などの外食で飲む酒はお銚子1本で12文ぐらいでした。

屋台の寿司屋ならにぎりの一貫が4~10文、常店のにぎりなら一貫20~30文、更に高いものなら一貫60文、屋台の天ぷらなら、エビやアナゴなどが串に刺された状態で一串が4文程度。

汁だけの蕎麦が16文であったのに対して、天ぷら蕎麦なら32文だったそうです。

うなぎの蒲焼きをそれなりの店でたべると1皿170~200文(ご飯ナシ)といきなり高価になりますが、鰻丼が1杯100文であったと言う話もあるので、それこそ食道楽は店のランクで大きな差があったようです。

江戸ならではの高価な食べ物の代表と言えばやはり初鰹です。

初物好きの江戸っ子といえどもその執着は異常ともいえるもので、記録に残る最高値が初鰹1本3両。

住み込みの奉公人やサンピン侍の一年分の給料もしくはそれ以上です。

当然こういうものを買う人は現代のセリで一千万円のマグロを売名効果を狙って落札したどこかの寿司チェーンの社長みたいなもので、当時も話題づくりを狙って人気商売のスター歌舞伎役者などが購入していたようです。

ただ、高級な初鰹も時期を外せば値下がりしたとも言いますが、それでも一本千文~二千文と、江戸っ子にとって鰹は安く売ってはいけないものだったようです。

その他の食品の値段を見ると、豆腐は一丁12文、味噌は一升100文、安酒一升80文、関東醤油一升60文、関西醤油(下り醤油)一升100文ほどでした。

また、刻み煙草(キセルに詰めるための乾燥葉)20gが4文、ゆで卵一個が20文と言う話もあり、今と違って卵が高級品であったことがわかります。

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娯楽への支出から見た江戸時代の貨幣価値

最後に娯楽と言う視点で江戸時代の貨幣価値を見てみましょう。

一日に千両の金が動いたとされる歌舞伎では、高い席になると銀25~35匁もしましたが「切り落とし」と言われる土間に置かれた狭くて安い席でも一人132文もしたと言われます。

ちなみに「千両役者」と言う歌舞伎の大スターの呼称は年俸千両(一億円?)がその所以とされています。

千両と言えばそれがまるまる実入りであった場合は、大身の旗本と変らぬ年収です。

旗本が家来を抱えるように、千両役者も抱える人間やそれなりの経費や上納金などの出費があったと思われますので、両者を単純には比較できませんが、一般庶民の感覚では千両も稼ぐ役者は大身旗本並みのステータスと力があったと言う事になります。

「日千両(一日に千両の金が動く)」と言われるものでは歌舞伎の他に、吉原などの江戸の遊郭と、江戸の魚河岸が挙げられています。

このうち遊郭は江戸の大レジャースポットであり、日千両とは言え実際にはそれとはけた違いの莫大なお金が動く世界であったと考えられます。

また、吉原遊郭、歌舞伎と並んで江戸の三大娯楽の一つであった相撲でもかなりの興業収入があったようですが、力士の給金自体は意外と安くて、十両力士と言われるように幕下なら十枚目までの力士が年収十両と言われており、幕内力士と言えども興業主からはさほどの給金は得ていなかったと言われています。

但し、力士の主な収入源はタニマチ(大阪谷町筋に住んでいた相撲付きの医者が語源)と呼ばれる贔屓力士のパトロンを始め、俄贔屓のファンやスポンサーからも莫大な祝儀があったようです。

相撲の観戦料は歌舞伎よりずっと高くて、土間席でも3匁、桟敷席なら43匁もしたと言い、これは歌舞伎の観劇料の1.5倍~2倍にもなります。

相撲の場合、男女を問わず利用できる歌舞伎や吉原(遊郭内の飲食店などは一般の女性客も利用できたようで、このため遊女はお歯黒や眉毛の形に決まりがあり、一般客に紛れて逃げ出そうにも、直ぐに見分けがつくようになっていました。)と違って、男性だけしか観覧が許されていませんでした。

相撲の場合は元が神事であるため、力士のスポンサーも魚河岸の講や大きな商家、更に大名が藩で抱えて扶持を与えるケースもあるなど、他の娯楽とは格式そのものが違っていました。

この点では相撲は実観戦の部分はやや敷居が高く、庶民には番付表や、勝敗の結果を知らせるかわら版等の媒体を通じて楽しむ娯楽と言う性格が強かったようです。

当時のもう一つの人気産業であったのが旅行・観光産業。

この旅行で言えば、江戸~京まで東海道の旅が一人一両から二両であったといいます。

旅籠(朝・夕の食事付き)一泊100~300文、江戸時代にすでに旅行代理店による団体旅行のシステムが確立されていたために更に安い団体旅行のプランもあったようです。

但し、徒歩での旅行なのでワラジは何足も履きつぶすし、大井川を渡るには人足も頼まなければならないし、また宿場宿場には飯盛り女(娼婦)と言う楽しみもあって、それなりに雑費もかかりましたが、業者による団体旅行なら決まった宿を定期的に使い、しかも団体が大きな部屋を相部屋として利用するので、宿泊費などはかなりリーズナブルなものに押さえることができたと思われ、一般庶民も参加できるようなツアーパックもあったようです。

その他では、当時人気のあった浮世絵が幕府の統制などもあったものの、一枚8文~20文と屋台の蕎麦一杯にも満たないような価格で手に入り、これこそ庶民の娯楽と言えました。

現代の感覚で言えば浮世絵一枚が数百円程度と言う事になり、その安さを思えば、古くなった浮世絵や春画の印刷された紙(版画)が日本からヨーロッパへの輸出品の包み紙として惜しげもなく使われていたために日本美術がヨーロッパに広く知られて、のちにジャポニズムの火付け役となったと言う逸話も納得できます。

江戸時代の貨幣価値の計算・換算は時期や場所、算出資料を変えることで、また違った印象になるとも思われますが、以上の内容からフィーリングとしての江戸時代の「庶民の一両」を多少なりとも感じていただければと思います。

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主要指標

日経平均29357.82(+26.45)
TOPIX1933.05(+5.65)
JASDAQ186.07(+0.75)
ダウ平均34548.53(+318.19)
S&P5004201.62(+34.03)
NASDAQ13632.84(+50.41)
ドル/円108.745(-0.321)
FTSE1007109.35(+33.18)
ハンセン28610.65(-26.81)

主要市場時計

米国・英国は夏時間です。

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