酒田五法の誕生ミステリー 本間宗久の謎

酒田五法 ローソク足の疑問

「酒田五法」の成立については諸説あります。

一般的には江戸時代後期の相場師とされる本間宗久の罫線法秘伝と考えられているようですが、これが本間宗久によるものとする考えに疑問を持つ研究も多く、それによるとその内容に見られる近代性から大正期、あるいは昭和期に成立したとする指摘もあります。

それらの代表的なものは「ローソク足」と言う記法自体の歴史が実はとても江戸時代までは遡れないとするもので、江戸時代の罫線は「ローソク足」のように日々の値動きを一定の時間間隔ごとに並べてゆくようなものではなくて「非時系列」と言われる値段が一定幅の動きをしたときにのみ記録してゆく「鉤足」と言う方法であったはずだから、「ローソク足」のフォーメーションを本間宗久が考えたとするのには無理があると言うものです。

そのように考えれば「ローソク足」のフォーメーションである「酒田五法」より、新値更新をカウントしてトレンド転換や押し目、戻り目の先を読む「酒田新値」が実は「伝統的酒田罫線法」の本筋であるとする説にやや説得力が出てきます。

つまり、非時系列の「鉤足罫線」や新値更新カウントの方がより古い時代の先物相場の「罫線法」に近いと言う方がしっくりくる気がするわけです。

「鉤足」は現代の罫線のように左から右に伸びるのではなく、右から左に引かれます。

これは今の「罫線法」のような日足の四本値などを元にしたものではなく、当時の先物相場には今のような「ザラバ」の売買がなくて「節」と呼ばれる一日に五回程度行われる「板寄せ」によって値決めがされていたらしく、このことを考えると、当時はこの「節」ごとに成立した値段を元にして非時系列の線が引かれていたと思われます。

酒田罫線のローソク足に対する疑問を述べた解説などの中に「当時は日足ではなくてザラバの鉤足が引かれていた」と言った表現のものがありますが、これは「ザラバ」ではなくて「節」の間違いではないかと思います。

あるいは「ザラバ」と言う意味の解釈自体が違っているのかも知れません。

いずれにせよ「節」ごと成立価格を非時系列で右から左に記録する「鉤足」と言うイメージは江戸時代の先物相場で用いられた罫線のイメージに近いものだと思われます。

昭和初期の成立と見られる「柴田罫線」でも「ローソク足」ではなく「鉤足」を罫線と呼んでいることから見ても、伝統的な先物相場の罫線は「鉤足」がスタンダードであったとする考えはそれなりの根拠が感じられます。

「柴田罫線」は昭和初期より更に古い時代の伝統的なコメ相場、農作物の先物相場で使われていた手法が元になっていると考えられます。

「ローソク足」が江戸時代の一般的な「罫線法」でなかった可能性を理解しておくことは「酒田罫線」と言うものの真の姿の理解のためには重要なことであると思います。

相場師 本間宗久の疑問

本間宗久は庄内藩(山形県)酒田の豪商で当時日本一の地主であった本間家二代目当主の弟として生まれ、経営陣の重要人物としての本間家への抜群の貢献が当主であった兄から評価されて二代目の分家中では最も多くの財産と特権を与えられ、さらに三代目の筆頭後見人として豪商本間家を事実上取り仕切ったとされる人です。

晩年は政商あるいは御用商人として江戸に居を構え(江戸本間と言う重要分家とされます)一説では侍あるいは旗本の株を購入して徳川幕府の経済の相談役として重要な仕事をしていたらしいと言う研究もあります。

江戸時代の有名な三井や鴻池などの大豪商は金貸しや為替仲介などを主な生業としていて、先物相場等に手を出すことなどは一族の法度として厳禁していたことや、宗久と言う人がそれらの三井などの家と同様に語られるような豪商本間家から絶大な信頼を受けていた一族の重要な後見人であったらしいことを考えれば、その素顔は当時の大家(たいけ)が危険な職業と考えていた相場師などであったと見るよりは、時代の経済人として当時のキーパーソンであったと見る方がしっくりきます。

コメの先物相場は大阪の淀屋で始まったと言われており、その意味では豪商の相場との関わり方は本来は相場の商いと言うより、相場の運営と言うこと自体であった可能性があります。

つまり豪商の重要な一族や支配人が一相場師として相場に参加し、日々の高下(値動き・損益)に一喜一憂すると言うのはやや考えにくいことなのです。

豪商一族の重要人物ならば、相場の運営で利益を得る立場、あるいは相場のインサイダーとして振る舞える可能性が高く、目いっぱい譲って相場とのかかわりを考えても、何らかの必要性から相場の仕組みなどを研究をしていたらしいと言うところが精々かもしれません。

三井家は幕府よりも多くの金を持っていたとされますし、本間家も当時の大名などよりはよほど多くの金を持っていたと言われており、それらの豪商は、むしろ生業として大名や上級貴族、上級旗本などに金を貸していたとされています。

そうした一族の重要人物が一相場師として相場で伝説的に稼いでいたとする説には時代考証的に無理があるように思えるのです。

また、よく言われるような堂島や江戸で本間宗久が伝説的な相場を張っていたとされる伝承の形跡は資料としては見当たらないようで、もし仮に宗久が趣味的に相場研究を行っていたとしてもそれは自分の息のかかった酒田のコメ相場であったろうと思われます。

あるいは、経済人として研究をしていたとするなら、幕府の財政などにブレーンとしてかかわった時期である可能性も考えられます。

江戸後期の幕府にとってコメの価格やそれを左右するコメ相場の動向は最重要問題であったからです。

オリジナル酒田五法 原点の心得

ともあれ「酒田五法」は成立やその由来がはっきりしない「相場三昧伝」(これは本間宗久の著作とも、その弟子の著作とも、更に後世の宗久ファンあるいは日本罫線研究家の著作ともされているものです)と言う書物の中の以下のような教え(管理人要約)が元になっているとされています。

  1. 日々の値動きを客観的に観察し(強弱転換点からの経過日数の)周期性(いわゆる日柄)とその周期のもたらす値頃感を重視する。
  2. 相場商いは高値圏、安値圏の強弱転換点(トレンド転換点)でそれを見極めてから行う事を基本とする。
  3. 強弱転換点からは百俵上げ・百俵下げ(百俵は今の225先物なら呼値1000円の上げ下げを投資資金単位の百万円の上げ下げと呼ぶようなイメージ)と言う値幅基準を持って利食い損切りを行い、更なる利乗せを行うならこの基準点でいったん手じまった上で、新たな見立てで取り組むこと。
  4. 自分の見立てや手法が外れていると感じたら、決してその場で付け焼刃的な修正を試みたり中途半端な深追いをしたりはせずに直ちに建て玉をしまって、気持ちに完全に冷静さが戻るまで一定期間商いに手を出さずに次の機会を待つ勇気を持つこと。
  5. 強弱の転換判断はちゃんと確認できるまで見極めるべきだが、利食いの方は決して利伸びを深追いせず、目標の七分も得たら十分と信じて仕舞うべきである。

以上のような五項目が「酒田五法」の本来の姿、あるいは教えだとする説があります。

つまり、オリジナルの「酒田五法」はローソク足形を述べたものではなくこのような心得を説いたものであると言う説です。

但しその「五法」の心得にもここに挙げたものの他にいくつかのバリエーションが存在すると思われます。



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